2009.08.19
SM心と恋心
前回に引き続き、今回も本音の部分を明かしていきたいと思います。
S、M限らず
「虐めたい」「虐められたい」という欲望は
好きだという気持ちと密接だろうと思う。
実際私も、SM遍歴にも少し書いたけど
当時の彼にSMを持ち込んで失敗してしまって、SMはSMのパートナーとやろう!
と思ってパートナーを募集し始めたのだった。
当時思っていた私のSM観は「SはMをある種の恋をさせねばならん」である。
それができなければ自分に力量がなかった、という事でご主人様になる資格がないのだ。
この人と一緒にいたいから、耐えられる
だから、私は無理強いをしたくなかったし
よくある奴隷契約書の「奴隷は自分から関係を切ることはできない」という項目はしっくりこなかった。
選択の自由は勿論Mにもあって、したいからする、いたいからいる、でないとこちらも意味がないと思う。
私はパートナーを好きだとは思うけど
どんな種類の好きかと聞かれたら答えられない。
でも、自分の中に甘えというか楽になりたい、というような
堕落的な勢いで
ストッパー、若しくはスイッチを変えたら
それは恋愛のような「好き」になってしまうと思う。
(私はここでSM的欲求と恋では恋の方が堕落しているとほざいている。本当?笑)
それはすごく勿体ない。
そうなったら元のようには戻れない。
反対に
相手も相手で私を好きなんだと思う。
やはりどんな好きかはわからないし、いろんな気持ちが混ざるから
分けられるものではないだろう。
それから気持ちを言葉にする事は許されない、私から許されていない。特に約束したわけではないけれど。
微妙な均衡が保たれていて、私はそれをまた愛している。
だけど集中して向かい合って
気持ちを制御できないようなくらいまで
追求して追い詰めて、おかしくしたいとも思う。
SMは狂いやすい。
なぜなら、マゾはもとから自己制御を外しているし、外される事を望んでいるからだ。
そして私はそれを外したいとも思うし
未だ残る理性と葛藤する様も見たいと思う。
そんなに楽しいことは馴れ合いが生まれたらできないのだ。
それはもう知ってるから、私は甘えた欲求は止める。
どこまでいけるか見てみたい。
破壊への道だとしても触れてみたい。
私はSとしてMを見続けたい。
それが切り取った空間や時間やそうでないとしても。
S、M限らず
「虐めたい」「虐められたい」という欲望は
好きだという気持ちと密接だろうと思う。
実際私も、SM遍歴にも少し書いたけど
当時の彼にSMを持ち込んで失敗してしまって、SMはSMのパートナーとやろう!
と思ってパートナーを募集し始めたのだった。
当時思っていた私のSM観は「SはMをある種の恋をさせねばならん」である。
それができなければ自分に力量がなかった、という事でご主人様になる資格がないのだ。
この人と一緒にいたいから、耐えられる
だから、私は無理強いをしたくなかったし
よくある奴隷契約書の「奴隷は自分から関係を切ることはできない」という項目はしっくりこなかった。
選択の自由は勿論Mにもあって、したいからする、いたいからいる、でないとこちらも意味がないと思う。
私はパートナーを好きだとは思うけど
どんな種類の好きかと聞かれたら答えられない。
でも、自分の中に甘えというか楽になりたい、というような
堕落的な勢いで
ストッパー、若しくはスイッチを変えたら
それは恋愛のような「好き」になってしまうと思う。
(私はここでSM的欲求と恋では恋の方が堕落しているとほざいている。本当?笑)
それはすごく勿体ない。
そうなったら元のようには戻れない。
反対に
相手も相手で私を好きなんだと思う。
やはりどんな好きかはわからないし、いろんな気持ちが混ざるから
分けられるものではないだろう。
それから気持ちを言葉にする事は許されない、私から許されていない。特に約束したわけではないけれど。
微妙な均衡が保たれていて、私はそれをまた愛している。
だけど集中して向かい合って
気持ちを制御できないようなくらいまで
追求して追い詰めて、おかしくしたいとも思う。
SMは狂いやすい。
なぜなら、マゾはもとから自己制御を外しているし、外される事を望んでいるからだ。
そして私はそれを外したいとも思うし
未だ残る理性と葛藤する様も見たいと思う。
そんなに楽しいことは馴れ合いが生まれたらできないのだ。
それはもう知ってるから、私は甘えた欲求は止める。
どこまでいけるか見てみたい。
破壊への道だとしても触れてみたい。
私はSとしてMを見続けたい。
それが切り取った空間や時間やそうでないとしても。