2ntブログ
2012.02.29 私のもの
強制、コントロールすることや
自分の望む姿に変えていくことに快感を覚えるのは何故だろう。

と考えてみた。
そうすると、行き着くのはやっぱり「支配」という言葉。

道具や、動物に貶めて楽しいのは
人格を無視して、利用する「もの」としてしまうから。
相手の主張や希望は無視され、私のものとなる。
自由にして良い。

逆にマゾは
自分という一人の人格、意志がなくなり
相手のものになることに感じるのではないでしょうか?

私のものにする
あなたのものになる

ここに快感の源があると思うの。

考えてみたら、私達は自分ではない人間と一体となることに幸せを感じるようにできている。
セックスなんて最たるものであるし、心中もそうでしょう。

一体となる
というのがとてつもない甘美な快感であって
SMというのはそこにたどり着く道なのだと思う。
極端な分かりやすい例。

私のものにする、あなたのものになる
そうして一体となる。

私の一体となる目的地への道は、「私のものにしたい」という道が太かったようで
人を好きになると
私のものにしたい
と思います。

逆に言うならば「私のものにしたい」という欲が湧かない人間を
好きになることがないということなの。

これは不思議なんだけど、そうなんだから仕方ない。
私のものにしたい
と色々な人に思うけど、強く思う程、強く好意があるってことなのね。

SMは極端な方法だと思うんだけど、求めてるのは一体となる
という人として至極真っ当な、欲求だと思うんだ。

「これは私のものだ」
と感じる時に、私はとても幸せ。

2012.02.14 サドは天邪鬼
私は天邪鬼です。

これやりなさい
と言われるとやりたくない
と思うし
これやっちゃダメ
と言われるとやりたくなる。

って皆さんそういう傾向にありませんか?
宿題やろうと思っていたところに「やれ」と言われるとやる気なくす、、みたいなね(笑)

そもそも、SMってタブーを犯すことに快感があるわけです。
道徳や自立などの美徳を擲って、跨いだらいけないと言われる頭を踏みつけたり
頼りになる自立したオトナが、ワンワンお手、と言いなりになる。

仮に、犬がお手をしたってエロくないですね。
それと一緒で、いつも頭を踏みつけていたら、当たり前になっちゃってタブー感が薄まり、エロさを感じなくってしまう。
私達は、人の身体を跨いだらいけない、と言われる世界に生きているからこそ
頭を踏むこと踏まれることを楽しむことができるのです。

普通だったらできないことをやるからこそ支配を感じることができる。
強制は、できないこと、抵抗のあることに対してしかできません。
痛いことや、辛いこと、恥ずかしいこと、屈辱であること
それを何らかの形で(気持ち良くしてしまう、身体を作り上げてしまうetc)受け入れられるように変えていくのが面白い。

だから、「このプレイはできません」と言われると
そこに突っ込みたくてウズウズしちゃうのね。

で、逆に完全にできるようになったら、できないようにしたくなったりもする(笑)

例えば、女王様に嫉妬するマゾに会ったなら
嫉妬なんてしていいわけないでしょお前の分際で
と叩き込みたくなるし

僕はしっかり切り替えできます。遊びですから
というようなマゾには、グチャグチャの精神状態にしてやろう
とやる気が出る。

鞭を逃げて受けられないマゾには、キチンと受けられるように躾したいし
そうなったらなったで、受けられない部分を求めたくなる。

そうやって、状況によって欲望は流動的で
同じ相手に全く逆に働くこともある。
そう天邪鬼。
私の力によって、相手を変えてしまいたいのだ。

絶対的にこうであるほうが好み
というような部分も勿論あるけどね。

さぁ。これを知ったそこのマゾ
これで私を煽ったり、操ることができるんじゃない?(笑)



先日ビアンの方々から
ゲイは猫が多いし、ビアンはタチが多い
と聞いた。

なる程。
普通の男女のポジションとは逆にいくのか。

子供の頃から女の子はズボンばっかり履いていたとか
男の子は柔らかかった、とか
そういう入りが多いと思う
って。

うん。

そうそう。
私も中学生くらいまでは、将にその道筋を辿っていました。
小学生の頃は刈り上げの短髪で、男もの着てた。
スカートなんて履かなかったなー。

女の子にカッコイいなんて言われるのが嬉しかった。

中学生の頃は女の子と付き合って、私はビアンなのかな~
と思ってた。
男の子、好きだったんだけどね。

多分、私は「タチ」というか能動的だったんだ。

でも
少女マンガやドラマやなどのせいで
女が男に能動的に恋愛する
っていうのが、想像できなかったのよ。
(男の子を追いかけ回して、土下座などはしていたけど、それと恋愛や性的なことは結びつかなかった)

つまりー
男を好きになる
というのと
自分の性格性癖が結びついていなかったのだ。


それが、高校生になって付き合ったMな彼のおかげで開花した。
これこれ!
ってね。

私、SMが大好きだから
自分がSでもMでもどちらでも良かったんじゃないかな~
と思ってたんだけど
案外そうでもなかったみたいだなあ。

なんて振り返って思った。
2012.01.24 これは私の
これは私のものだ
と思う時がある。

だいたいは、その目を見た時に思う。
心酔した目が私を追うのがわかって、すべてを受け入れるとわかる時に思う。
この男を、胸が千切れるほどに苦しめられる、涙が零れる程の痛みを与えられる、
我を忘れる位の幸せを与えられる、と感じる時に
「これは私の」
と思う。

そう思うと、愛しくなって抓りたくなる。

苦しそうでも、嬉しそうでもなくて
ただ見つめて委ねるような様子なんだ。

そういった時に快感を与えると溶けるような顔をする。
私はそれをよーく覚えていて、思い出すんだ。

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マゾって、プレイが終わった直後にも何したのか覚えていないこと、よくあるよね。
私はすごく覚えている。

あの時にどんな顔した、って
瞬間瞬間の表情を、大事に取っておく。

SMっていいよね。
2012.01.05 ぬかるみ
ruiko5.jpg


一番好きなプレイですか?

そうですね。私、やっぱり寝取られ系が好きです。
SMプレイ、というのとは、また違うのかもしれませんけれど。
寝取られっていうのは、SMファンンタジーの中でベタ中のベタじゃないですか?
「毛皮を着たヴィーナス」でも、「痴人の愛」でもそこに行き着きますよね。

なんで好きかというと、私、好きな人のことは私によって苦しめたいからです。
好きでいることで苦しくなり、その苦しみから逃げられない状況は強く支配を感じます。
無理強いって私の趣味じゃありません。
暴れるのを、押さえ付けて強いたって面白くないと思うの。
ゆっくり周りから追い詰めて気付いた時には、自分が逃げられなくなっているのが面白い。
あくまで選ぶのは自身です。

寝取られ系の苦痛というのは、対象を好きでなくなってしまえば、意識から外してしまえば、楽になれます。
失恋も同じですが、本当に楽になろうとするならば、めそめそする暇がないよう忘れる努力をします。
そうしないのは、自分の心の内に対象を置き留めていたいからです。
忘れる位ならば、苦しむことを選ぶ。
苦しむ快感を知ってしまうと、気持ち良くて逃げられないんです。

人が自ら選んで、苦しむのは、そこに快感があるからです。
苦しいのは、避けたくても、快感に負けてしまう。
嫌だけど、快感が強くて、引き込まれてしまうんです。
なんでこんなこと、と思いながらも魔力のような快感に負けて苦しいのがわかっていながらも続けてしまう。
気持ちが強いほど、その快感に負けやすいのではないかな。

私は、苦しくても側にいたくて、快感を感じている姿に触れるとひどく満足して興奮します。
だから、より多くの苦痛を与えたくなります。

大好きな女性が、自分を洟にもかけないのは辛いでしょうが
その女性が、自分以外を大事にしていたらもっと辛いでしょう。
それを目の当たりにしたら、どう?
それでもあなたは、媚びますか?

被虐に酔って気持ち良くなれる?自分を卑屈に貶めて、甘美に溺れる。
辛くないわけではないので、代償も大きいですけど、もう逃げられない。
押さえ付けられているからではなく、扉の開いた籠から、自ら出たくないと願うからです。

飛び切り辛くて、飛び切り気持ち良くて、溺れる姿を見るのが大好きです。
引き込んで入り込んでから、狙ってつついてやりたいわ。

苦しくて泣いて歪んで潰れて喘いで、ずぶずぶに気持ちよくなればいい。
ぬかるみに嵌って出られくなればいい。