2020.03.25
真っ直ぐ突き刺さる言葉
プレイ中に発するマゾの言葉は私を深く突き刺す。「突き刺す」という言葉が相応しい。グサーッと刺さるので、まるで攻撃されたかのような後味が残る。突然発せられたそれらの小さな言葉は凶器だ。プレイが終わった後にもそれは心に刺さったままなので、私は思い返さざるを得ない。
どうして凶器となり得るかというと、真実味があるからだ。肉体と精神が刺激に塗れて制御不能だったり、刺激の余韻の中言葉を取り繕う素ぶりが微塵もない中発せられるからだ。
不意打ちに私の感情はぐらりと揺さぶられる。
苦痛の真っ最中にマゾが「出勤減らすのですよね。」と口を開いた。私は突然の会話の始まりに驚きながらも、「うん。でも辞めないよ。」と言った。喘ぎを堪えながら、間を作り出して、そのマゾは頷いて、うん、と言った後に
「辞めないでくださいね」と絞り出すように言った。グサーッ。
シンプルな短いその言葉に私の心は貫かれた。反射的に目の周辺に鈍い熱が湧き上る。私はそれを振り払うように、「うん。辞めないよ。」と繰り返した。そうしてまた苦痛を与え始めると、マゾは言葉を紡げなくなった。
真っ直ぐなマゾの言葉で私の感情は揺れ落ちそうになる。普段なら平常に受け止められる言葉なのに。
プレイが終わった後にも、深く刺さった言葉は抜けない。痛みが止まらない。そして私はこの痛みが愛しい。
どうして凶器となり得るかというと、真実味があるからだ。肉体と精神が刺激に塗れて制御不能だったり、刺激の余韻の中言葉を取り繕う素ぶりが微塵もない中発せられるからだ。
不意打ちに私の感情はぐらりと揺さぶられる。
苦痛の真っ最中にマゾが「出勤減らすのですよね。」と口を開いた。私は突然の会話の始まりに驚きながらも、「うん。でも辞めないよ。」と言った。喘ぎを堪えながら、間を作り出して、そのマゾは頷いて、うん、と言った後に
「辞めないでくださいね」と絞り出すように言った。グサーッ。
シンプルな短いその言葉に私の心は貫かれた。反射的に目の周辺に鈍い熱が湧き上る。私はそれを振り払うように、「うん。辞めないよ。」と繰り返した。そうしてまた苦痛を与え始めると、マゾは言葉を紡げなくなった。
真っ直ぐなマゾの言葉で私の感情は揺れ落ちそうになる。普段なら平常に受け止められる言葉なのに。
プレイが終わった後にも、深く刺さった言葉は抜けない。痛みが止まらない。そして私はこの痛みが愛しい。
2020.03.08
エクスタシーについて
先日高校時代からの友達とバーで飲んでいる時に、好みの美味しいお酒に出会うとエクスタシーみたいな快感が走らない?と聞いたら否定された。バーテンダーさんに聞いても否定された。因みに音楽でもそれが起きないか聞いたけれど、当然のように否定された。
その流れから、私がSMをしている時の快楽の感じ方を説明したら、だからそんなにSMに固執しているんだね、と納得された。その友達は高校自体からずっと私を見ていて、SMを始めたい、始めた、プロになる、こんなマゾと会った… と多くの話を長い間聞いてくれている。
SMをしている時、考えている時、直接肉体に触れないのに性的快感が身体を走る。 最初に下半身にズンとだったりジワリとだったりして快楽が響く。響きの重さに比例して、身体へ痺れのような快楽が走る。 重い響きの時には指先まで痺れる。その響きが重なって訪れる時もある。
プレイの時間をマゾと経過して、リンクして進んでいくとある段階ではふわーっと漂うような感覚に陥る。別世界へ一緒にいった感覚。
エクスタシーの語源はギリシャ語で、魂が自らの肉体の外へ出て宙をさまようといった意味が込められている。宗教的には「魂が肉体から離れたエクスタシー状態において、神仏などの霊的存在と直接接触したり交流する」とされる例が世界各地に見られるそう。
SM中そんな風に、宙で魂同士が交流しているように感じる時がある。
先日、経験の少ないマゾとプレイしている時、彼を別世界へ連れて行けたと感じた。プレイの終わりに話しかけると「水の中へどんどん沈んでいくように周りの音が聞こえなくなって、どんな反応をしたらいいか?と考えていた思考も消えていって、声が直接心に入ってくる感じがした」と言っていた。
お互いがエクスタシーを感じている時は、そこがどこであっても、こここそが世界だと感じる。世界に2人しかいない。完全なる支配下でコントロール下にいるマゾを前にして何でもできるような万能感にも襲われる。穏やかな浮遊感。
そんな快楽を感じられる時がある。
その流れから、私がSMをしている時の快楽の感じ方を説明したら、だからそんなにSMに固執しているんだね、と納得された。その友達は高校自体からずっと私を見ていて、SMを始めたい、始めた、プロになる、こんなマゾと会った… と多くの話を長い間聞いてくれている。
SMをしている時、考えている時、直接肉体に触れないのに性的快感が身体を走る。 最初に下半身にズンとだったりジワリとだったりして快楽が響く。響きの重さに比例して、身体へ痺れのような快楽が走る。 重い響きの時には指先まで痺れる。その響きが重なって訪れる時もある。
プレイの時間をマゾと経過して、リンクして進んでいくとある段階ではふわーっと漂うような感覚に陥る。別世界へ一緒にいった感覚。
エクスタシーの語源はギリシャ語で、魂が自らの肉体の外へ出て宙をさまようといった意味が込められている。宗教的には「魂が肉体から離れたエクスタシー状態において、神仏などの霊的存在と直接接触したり交流する」とされる例が世界各地に見られるそう。
SM中そんな風に、宙で魂同士が交流しているように感じる時がある。
先日、経験の少ないマゾとプレイしている時、彼を別世界へ連れて行けたと感じた。プレイの終わりに話しかけると「水の中へどんどん沈んでいくように周りの音が聞こえなくなって、どんな反応をしたらいいか?と考えていた思考も消えていって、声が直接心に入ってくる感じがした」と言っていた。
お互いがエクスタシーを感じている時は、そこがどこであっても、こここそが世界だと感じる。世界に2人しかいない。完全なる支配下でコントロール下にいるマゾを前にして何でもできるような万能感にも襲われる。穏やかな浮遊感。
そんな快楽を感じられる時がある。
2020.02.27
お仕置きについて
裏シオラにて、スパンキングベンチの記事を更新しています。
アルファインMyダンジョン化計画
スパンキングベンチを使ったプレイ
こちらの記事にも書きましたが、アルファインでの私とのセッションの時に使用できます。
さて本日は「お仕置き」についてのお話。
近ごろお仕置きをする機会が偶然重なった。「お仕置き」という言葉には、なんだか甘美なロマンを感じる。その理由を改めて考えると、立場の違いが明確にそこにあるからだと思う。支配者のルールから逸れた時に、与えられる罰としての苦痛。マゾの立場の小ささを実感する時。
SM行為の中でのお仕置きにエロスを感じるのは、そのルールがいくら理不尽であっても被支配者は受け入れなければいけないからだと思う。でも、その理不尽は実は強制のようで、本当の強制ではない。選択された強制。強制を私の力で選択させることに支配を感じる。
私はマゾに束縛をしないので、支配欲、独占欲が弱いと思われるけれど、ある意味ではかなり強い方だと思う。嫌がるのを無理に従わせるのではなくて、従いたいと心から思わせたい。そちらの方が、深く支配、独占していることになると思う。心の一番大事な真ん中の特等席に私という存在を刻みたい。
私のルールに逸れたマゾへお仕置きをしている時、そんなことが一纏めになって感覚を刺激する。
お仕置きをする時の罪は軽いものから重いものと様々だけど、本当に怒りを感じている段階ではお仕置きはできない。怒りが冷めたころに、お仕置きができる。罰は罪を赦す為にある。お仕置きは赦す為の行為だ。
そして、お仕置きは私の怒りが大きかった時程、私自身が興奮してしまう。対峙しているマゾも同じように、昂ぶる。お互い不条理だなと思う。きっと、それほど感情が動き合う関係と、没頭してしまうほど真剣であることが大切なんだと思う。
不思議だけど、私たちはそこで興奮してしまうんだ。支配をリアルに感じる時に。
アルファインMyダンジョン化計画
スパンキングベンチを使ったプレイ
こちらの記事にも書きましたが、アルファインでの私とのセッションの時に使用できます。
さて本日は「お仕置き」についてのお話。
近ごろお仕置きをする機会が偶然重なった。「お仕置き」という言葉には、なんだか甘美なロマンを感じる。その理由を改めて考えると、立場の違いが明確にそこにあるからだと思う。支配者のルールから逸れた時に、与えられる罰としての苦痛。マゾの立場の小ささを実感する時。
SM行為の中でのお仕置きにエロスを感じるのは、そのルールがいくら理不尽であっても被支配者は受け入れなければいけないからだと思う。でも、その理不尽は実は強制のようで、本当の強制ではない。選択された強制。強制を私の力で選択させることに支配を感じる。
私はマゾに束縛をしないので、支配欲、独占欲が弱いと思われるけれど、ある意味ではかなり強い方だと思う。嫌がるのを無理に従わせるのではなくて、従いたいと心から思わせたい。そちらの方が、深く支配、独占していることになると思う。心の一番大事な真ん中の特等席に私という存在を刻みたい。
私のルールに逸れたマゾへお仕置きをしている時、そんなことが一纏めになって感覚を刺激する。
お仕置きをする時の罪は軽いものから重いものと様々だけど、本当に怒りを感じている段階ではお仕置きはできない。怒りが冷めたころに、お仕置きができる。罰は罪を赦す為にある。お仕置きは赦す為の行為だ。
そして、お仕置きは私の怒りが大きかった時程、私自身が興奮してしまう。対峙しているマゾも同じように、昂ぶる。お互い不条理だなと思う。きっと、それほど感情が動き合う関係と、没頭してしまうほど真剣であることが大切なんだと思う。
不思議だけど、私たちはそこで興奮してしまうんだ。支配をリアルに感じる時に。
2020.02.09
届かない快感
目の前に欲しいものがある。手を伸ばせば届く距離にある。だけれども、その手は動かせない。
だから、身を委ねるしかない。与えられる誘惑や、十分ではなくて渇望してしまうような、苦痛にも似た幸せを受け入れるしかない。
そんな状況を、あなたの「欲しいもの」を思い浮かべて、想像してみて。それぞれによって欲しいものは違う。
あなたの崇拝する、その人の存在そのものでも良い。
誘惑して、焦らした時の、請うような瞳が好きだ。言葉で直接請う者もいるし、願うこともすべきではないと耐えながら見つめる者もいる。
でも、その時間は、とてつもなく甘いはず。焦がれる時間の切なさも好きなはず。欲して仕方がない時に与えられる、ちょっとの恵みに身体は震えるはずだよ。
全部与えられた時にどれ程満たされるだろうか。
でもそれを、今はあげないかもしれない。安心しない方が、もっとお前は焦がれられるから。
だから、身を委ねるしかない。与えられる誘惑や、十分ではなくて渇望してしまうような、苦痛にも似た幸せを受け入れるしかない。
そんな状況を、あなたの「欲しいもの」を思い浮かべて、想像してみて。それぞれによって欲しいものは違う。
あなたの崇拝する、その人の存在そのものでも良い。
誘惑して、焦らした時の、請うような瞳が好きだ。言葉で直接請う者もいるし、願うこともすべきではないと耐えながら見つめる者もいる。
でも、その時間は、とてつもなく甘いはず。焦がれる時間の切なさも好きなはず。欲して仕方がない時に与えられる、ちょっとの恵みに身体は震えるはずだよ。
全部与えられた時にどれ程満たされるだろうか。
でもそれを、今はあげないかもしれない。安心しない方が、もっとお前は焦がれられるから。
2020.01.17
中毒性
「芸人の中で誰が1番好き?」と聞かれることがたまにある。私はお笑いが好きだけど、劇場に熱心に通ったり、若手に詳しいわけでもないから、答えに困る。だけど、寝付きの悪い時に聞くラジオはもっぱら「オードリーのオールナイトニッポン」だからオードリーが好きなんだと思う。近年の漫才も好き。
SMブログでなんで唐突にそんな話をしているかというと、若林さんのエッセイ「社会人大学 人見知り学部 卒業見込み」を読んで、共感するところがあったから。(最新刊を読んで昔のエッセイも読みたくなった。)
私が人生で好きなことは、SMと音楽とお酒とお笑い。共通項がある。
若林さんのエッセイで、芸人が口を揃えて「大勢の人間の笑い声には中毒性がある。」というところでは、先日の音楽ライブのステージを思い出して、その中毒性を思い出していたのだけど続けてこんな文章があった。
"このあいだ、精神科医の人と話をしていてお笑い芸人を目指す人の特性について聞いた。即答で「人間不信でしょうね」と言われた。
笑うという反応は人間の中でも嘘のつきにくい反応なのだそうだ。"
"(前略)漫才をやっている時にお客さんの笑い声を聞いて圧倒的だなと驚いた。
それは、反応への実感性と信用度だ。"
同じようなことを考えて言葉にしている人がいるんだなと、高揚した。「反応への実感性と信用度」という言場には、言語化してくれた!と、感銘も受けた。
私は、SMの好きなところの、重要な一つとして「嘘のない反応」があると言ってきた。私は人間不信ではないけれど、学生の頃から誰とでも共通して話せる話題が好きではなくて、大きいグループでの付き合いは避けていた。協調性によって本心が聞けないだろうと、信用していなかった。
では、なんで嘘のない反応や、本心が欲しいのだろう、と考えると、そこには「知りたい」とか「繋がりたい」という気持ちが出てくる。SMの場合はそこに「支配したい」がでてくるのだけども、大きく括ると「支配したい」は「繋がりたい」に括られると思う。
ステージ上もSMプレイ中も、現世ではないような異世界にいるような感覚に陥る。私たちは普段、様々な人間関係の中で役割、立ち位置がある。どれの自分も嘘ではない。ただ、異世界と感じる場所にいる瞬間はそれが消えて、いまそこにいる人間しか存在しないような感覚になるんだ。そうして、そこにいる人と「繋がっている」と感じる。
そんな時間にはやっぱり中毒性がある。
SMプレイなんて、その上、性的快感もあるわけで、やめられるわけないよね。
SMブログでなんで唐突にそんな話をしているかというと、若林さんのエッセイ「社会人大学 人見知り学部 卒業見込み」を読んで、共感するところがあったから。(最新刊を読んで昔のエッセイも読みたくなった。)
私が人生で好きなことは、SMと音楽とお酒とお笑い。共通項がある。
若林さんのエッセイで、芸人が口を揃えて「大勢の人間の笑い声には中毒性がある。」というところでは、先日の音楽ライブのステージを思い出して、その中毒性を思い出していたのだけど続けてこんな文章があった。
"このあいだ、精神科医の人と話をしていてお笑い芸人を目指す人の特性について聞いた。即答で「人間不信でしょうね」と言われた。
笑うという反応は人間の中でも嘘のつきにくい反応なのだそうだ。"
"(前略)漫才をやっている時にお客さんの笑い声を聞いて圧倒的だなと驚いた。
それは、反応への実感性と信用度だ。"
同じようなことを考えて言葉にしている人がいるんだなと、高揚した。「反応への実感性と信用度」という言場には、言語化してくれた!と、感銘も受けた。
私は、SMの好きなところの、重要な一つとして「嘘のない反応」があると言ってきた。私は人間不信ではないけれど、学生の頃から誰とでも共通して話せる話題が好きではなくて、大きいグループでの付き合いは避けていた。協調性によって本心が聞けないだろうと、信用していなかった。
では、なんで嘘のない反応や、本心が欲しいのだろう、と考えると、そこには「知りたい」とか「繋がりたい」という気持ちが出てくる。SMの場合はそこに「支配したい」がでてくるのだけども、大きく括ると「支配したい」は「繋がりたい」に括られると思う。
ステージ上もSMプレイ中も、現世ではないような異世界にいるような感覚に陥る。私たちは普段、様々な人間関係の中で役割、立ち位置がある。どれの自分も嘘ではない。ただ、異世界と感じる場所にいる瞬間はそれが消えて、いまそこにいる人間しか存在しないような感覚になるんだ。そうして、そこにいる人と「繋がっている」と感じる。
そんな時間にはやっぱり中毒性がある。
SMプレイなんて、その上、性的快感もあるわけで、やめられるわけないよね。